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【陸軍板橋火薬製造所跡】 日本初の官営火薬工場、一般公開! 貴重な近代化遺産を覗いてみた!

国内初の官営火薬工場として明治期の陸軍省により建設され、第二次大戦後は野口研究所や理化学研究所が入居していた、板橋区にある近代化遺産『陸軍板橋火薬製造所跡』が、1日限りで一般公開! 普段立ち入れない内部を覗かせていただきました♪
*掲載情報は2025年10月5日開催の一般公開イベントの様子で、内容を保証するものではありません。
*掲載写真はすべて編集部による(一部除く)。
イベント概要
『陸軍板橋火薬製造所跡・秋の一般公開』
開催地東京都板橋区加賀1-7、同1-8
開催日2025年10月4日(土)
最寄り駅三田線「新板橋駅」より徒歩10分
主催板橋区
告知サイトhttps://www.city.itabashi.tokyo.jp/
「陸軍板橋火薬製造所跡」とは!?
今回オジャマした『陸軍板橋火薬製造所跡』は、幕末から第二次世界大戦期にかけて、日本の近代化への発展に多大な貢献をした産業、交通、土木関連の建造物が対象となる《近代化遺産*》に認定された貴重なスポット。
*「近代化遺産」は現在全国に151箇所あり。都内23区内での認定は『陸軍板橋火薬製造所跡』が初。
2017年(平成29年)には、未来へ残すべき財産として国により史跡に指定されています*。
*対象は今回紹介する「旧野口研究所」「旧理化学研究所」と、隣接する「加賀公園」の敷地をまとめて。
同施設の始まりは、1世紀以上に前に遡ること1876年(明治9年)。加賀藩の下屋敷・平尾邸の跡地に、当時の陸軍省(明治政府)により建造された、国内初となる官営の火薬工場兼研究所です。
同地は、脇に流れる石神井川の水力を動力源として、幕末には大砲を鋳造し、明治以降は火薬の製造が行われました。

隣接する「加賀公園」内には、加賀藩下屋敷・平尾邸の跡地を示す石碑も。
その規模は膨大なもので、現在では1.2万㎡まで縮小されているものの、当時はなんと50万㎡(=東京ドーム10.7個分)もあったそう!
1945年(昭和20年)の第二次大戦の終戦時までの約70年間、国内有数規模を誇る火薬工場として利用。終戦後は大蔵省が管理し、民間の学校、工場、さらに研究所(野口研究所、理化学研究所等)などが入居していた時期も。その後、板橋区に移管され現在に至ります。現在は全施設が退去しており、カラの状態で維持管理されています。
施設がある板橋区は、元々戦前から工業分野や科学研究関連が盛んなエリアとして知られ、その昔は「工都」とも呼ばれていたそうです。
現在同施設を管理する板橋区では、国内でも極めて珍しい火薬製造に関係した『陸軍板橋火薬製造所跡』を「工都・板橋」を代表するスポットとして位置づけつつ、遺構や建造物を近代化遺産・産業遺産として保存・活用する取り組みをしています。
その最たる施策が、令和11年度中(2029年4月〜2030年3月)のオープンを予定している『板橋区史跡公園(仮)』と呼ぶ、都内では初となる史跡公園。

*素材提供/板橋区
『板橋区史跡公園(仮)』の完成後の様子。
元々同地は「加賀公園」と呼ぶ公園が隣接していますが、そこもひっくるめて、近代化遺産である『陸軍板橋火薬製造所跡』を活用した整備計画が進行中なんです。

「加賀公園」は、屋敷内の庭園にあった築山の跡を利用した24時間開放公園。徳川幕府の崩壊にあわせ明治政府の所有となったそう。
秋の一般公開とは!?

*素材提供/板橋区
今回公開されたのは、終戦後に解体された『陸軍板橋火薬製造所』跡に残る建物に入居した『旧野口研究所』と『旧理化学研究所』。
市の担当によると、『旧野口研究所』は2017年(平成29年)、『旧理化学研究所』は2016年(平成28年)まで可動*と、日本の近代化を伝える歴史的建築物は、戦後70年以上、比較的最近まで現役で利用されていたんです!
*板橋区の公式リリースによる。

『旧野口研究所』と『旧理化学研究所』は、石神井川を挟んだ対岸にあり徒歩数分の距離に位置しています。
それら建築物は、改増築を行った部分がある一方で、戦前まで可動していた火薬工場時代を忍ばせる遺構*も複数あるなど、貴重な近代化遺産となっています。
*現存している遺構は、厳密には「工場跡」ではなく、火薬・爆薬の「研究所跡」
一般への公開は、一部例外を除き基本的に行っていないそうですが今回は特別。「文化庁」と「全国近代化遺産活用連絡協議会」が行っている、「近代化遺産全国一斉公開」の一環として公開されました(公開は一部エリアのみ)。
この一斉公開は、日本が辿ってきた近代化の歩みを、いまに伝わる建造物等を通じて知ってもらおうという取り組みで、10月20日の「近代化遺産の日」にあわせ毎年10月1日から11月30日にかけて実施。今年は全国154箇所で開催中です。

通常立ち入ることができない貴重な施設を見学できるとあり、公開日は午前中から多くの方が足を運ばれるなど、みなさんの熱量は相当に高いものが。2班構成で開催されたガイドツアーも大盛況でした!
そんな特別公開に『陸軍板橋火薬製造所跡』が参加したのは昨年が初。今年は2回目の開催となり、前回同様、参加は「無料」。告知は区のホームページ等で実施。事前予約も不要であったこともあり、あいにくの天候にも関わらず多くの方が足を運ばれました。
【1】旧野口研究所

まずご紹介するのは『旧野口研究所』。「加賀公園」に隣接する形でつながっています。
「野口研究所」は化学工業の発展に貢献する基礎的研究、研究助成、人材育成を目的とする公益財団法人であり、現在は『旧野口研究所』から目と鼻の先の場所にお引っ越しされています。
設立者の野口 遵さん(1873-1944)は、チッソや旭化成などを創業した実業家です。
『旧野口研究所』は、後述する『旧理化学研究所』と比べ、火薬工場時代の情景が色濃くのこっているものの、陸軍の資料等は終戦後にほとんどが破棄されており、いまなお不明な点が多いそう。
発射試験跡

真っ先に目に飛び込む、コンクリートの煙突のようなものは『弾道管(弾道検査管・爆速測定管・トンネル射場)』と呼ばれるもので、火薬の量や種類を変えて弾丸を発射し性能を試すテスト機器。筒の端は後述する『燃焼実験室』とつながっていたとされ、その部屋から実際に弾丸を発射し、(筒のなかで電磁波を形成し)速度等を計測していたそう。
現存しているのは一部なものの、全長は50m程度あったとされ、現在でも下水などで広く使われているコンクリートのヒューム管を利用。内径は686㎜。
建築年等詳細は不明で、史料に記載が見られるのが1934年(昭和9年)とのこと。製造は恐らくそれ以前と予想されています。ちなみに『弾道管』が現存するのは、国内ではここを含めて2例*しかなく、板橋の弾道管がもっとも古いとのこと。
*もう1つは群馬県にある自然公園「群馬の森(旧東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所)」
『弾道管』と並行するように展開される、左右を『土塁』と呼ぶ小山で仕切られた窪地は『発射場(射場)』。ここは製造した火薬の品質を一定に保つため、実際に発射試験を行った場所。

『発射場(射場)』の地形は、ご覧の通り手前に向かってせり上がっていますが、その理由はいまだ不明。弾道がせり上がった!?
写真向かって奥側*から発射し、手前側にある『射垜』と呼ばれる、築山**の盛土(的)に当てる試験を実施。『土塁』は、発射時の爆発で起こりえる防護壁の役目とのこと。
*発射場(発射室)は木造のため、現存していません。
**築山は、石や土砂を盛りあげて山に見立てた小高い丘。「加賀公園」の「築山」は、下屋敷の庭園を見渡すために江戸時代に造成され、明治以降は射撃の的として利用。

『発射場』の先に現存する『射垜』は、公園内の一部にあるため常時見学可能。表面部がコンクリートで覆われていますが、実際には奥行が10mもある部屋状の形をしているそう。
明治初期から実際に発射試験が行われていたとされ、レンガ積みである射垜の大きさから口径の小さい玉の発射試験に使っていたのでは!? とのこと。
ちなみに的である『射垜』は、先述の『弾道管』の先にも(形状は異なるが)存在していたとされるものの、1971年(昭和46年)に「加賀公園」を整備する際に取り壊してしまったそう。
燃焼実験室

先述の『弾道管』の先にある白い建物が『燃焼実験室』。終戦間際の1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)頃に建設され、内部では実験棟として様々な火薬試験&研究が行われ、終戦後施設に入居した「野口研究所」では研究棟として利用されました。

『燃焼実験室』から伸びるひさし下の壁をよく見ると、壁を塞いだ跡が分かるはず。ここに『弾道管』が連結されていたとされる。
外壁の表面こそ劣化が進んでいるものの、耐震強度は極めて高く、驚くべきことに現在の厳しい耐震基準もクリアするほどの耐性があり、補強の必要はないそう。いかに重要な施設であったかが分かります。

内部は「野口研究所」に適時改装・改修が行われており、火薬研究所時代の様子は現在でもよく分かっていないそう。現在保存されているのは「野口研究所」の時代のもの。

建物は2F建てとなっており、2F窓から『弾道管』などを眺めることもできました。

『弾道管』の脇にのこるこの独特な建造物『試験室(No.552/672)』については史料がなく、どんな研究が行われ、なぜこの形となったのかも不明。建築は終戦間際の昭和20年以前とのこと。

過去に実施された発掘調査で出土したレンガ等の展示も。焼き物で有名な、愛知県常滑市の製品であることも分かっているそう。
爆弾製造実験室・銃器庫・軌道敷き

『爆弾製造実験室』は新型爆薬を試験するテストプラント。建設は1935年(昭和10年)。具体的資料がのこっていないため、どんな装置を使い、どんな火薬を試験していたかは不明とのこと。
建物は鉄筋コンクリート製の平屋で、屋根は切妻と呼ばれる、もっともオーソドックスな三角形をした形状。一部外壁をトタンで補修していることもあり、見た目は廃屋といった印象が強い。
内部のコンクリート製の壁は、厚さが30〜40㎝もあるなど、爆薬を扱う施設のためかなり強固な作りとなっているんです。

『爆弾製造実験室』は、元々は史跡指定地外となる、現在隣接するマンションが建っている場所にあったとのこと。2017年に、建物を解体しない「曳家(ひきや)工事」で現在の場所に移動されました。
一方で、事故等による爆発事故の被害を軽減するため、前方部や屋根をもろくて軽くし爆発の威力を逃がす「放爆構造」としていた可能性があるとのこと。
そんな『爆弾製造実験室』の隣にある、四角い平屋建ては『銃器庫』。建設は1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)頃。

『発射場』で使用した火器類を保管した建物と考えられており、内部は木造二階建の棚床があるとのこと。現在は、同地の遺物類を一時的に保管する場所として利用しているそう。
さらに、『弾道管』に並行して存在した『擁壁』という壁も健在。実際には『燃焼実験室』付近まで続いていたとのこと。

『弾道館』は爆発の危険性があるため、左右を盛り上げた「土塁」で保護していましたが、『擁壁』はその土塁上に設けられており、現在のこるのは1区画(幅12m×高さ2m)のみ。1971年(昭和46年)の「加賀公園」整備時には7区画のこっていたそう。
注目は『擁壁』の裏側。一見なにもないフラットな通路に見えますが、じつはここには「軽便鉄道*」と呼ぶ列車が走る線路『軌道敷き』があり、「蓄電工場車**」と呼ばれる運搬車が広大な工場内を行き来していたんです。現状では想像もつきませんが、それだけ敷地が広かったということ!
*「軽便鉄道」のレール幅は、JRの在来線等で多い1.67m(3フィート6インチ)よりも狭い、750㎜というナローゲージでした。
**工場内では火薬を扱っていたため、可燃性燃料で動く機関車は危険。そのため、「蓄電工場車」という電気機関車を使い、そこに「貨車(トロッコ)」を連結させて移動。鐘を鳴らしながら走行していたことから“チンチン電車”と呼ばれていたそう。

『擁壁』の右側にある、広場のような道が「軌道敷き」があった場所。
石炭などの物資や製造した火薬製品などの運搬用として利用された「軽便鉄道」は、元々は赤羽にあった火薬工場で建設されたもので、1907年(明治40年)頃に板橋の火薬工場まで延伸されたもの。
『擁壁』は、万が一の事故を想定し、実際に火薬を使うエリアとの仕切りを明確にするための「防護壁」の役目も果たしていたという説もあるそうです。
常温貯蔵室・加温貯蔵室
安定的な威力を発揮する火薬・爆薬を製造するための研究の一環として、火薬の保存方法や、温度による変化について調べる際に利用した建物も一部現存。

『常温貯蔵室』手前にある、鉄板で蓋をしたような場所の下には「水槽」が眠っています。アメリカ国立公文書館にある資料に「防火用水槽」であるという記述があったことで、存在が判明したとのこと。
縦2枠×横8枠からなるコンクリート製の『常温貯蔵室』は、研究中の火薬類を種類別に常温貯蔵し、変化を観測。担当者によれば、火薬類は暖めて冷ましさらに暖めるなど、温度変化に弱く、劣化のスピードが早まる性質があるそう。

16枠のうち、鉄の扉を閉めるかんぬき錠が現存するのはうち8枠。一見すると焼却炉のよう。裏にまわり内部を確認することも。建造は1934年(昭和9年)以前。
常温貯蔵のほかにも、『加温貯蔵室』も。暖めながら保存すると火薬や爆薬はどう変化(劣化)するのかを研究した施設といい、現在でいう床暖房のような設備を擁し、数百日連続で保管して劣化の具合を確認したとのこと。

建物を石神井川側に建て、裏側を土塁でカバーと、万が一の爆発事故等を想定した配置となっている。ちなみに現存する『加温貯蔵室』正面にあるシャッターは、野口研究所時代に行った改変。
『加温貯蔵室』の隣にのこる基礎には、火薬・爆薬を一時保管する施設があったとされ、30年程度前までは現存していたとのこと。
……と、『旧野口研究所跡』を見学させていただきましたが、お気づきになられた方もいらっしゃるかと思いますが、工場跡(研究所)は全体的に、小さな建物が多かったですよね。
担当者によれば「火薬・爆薬工場(研究所)はつねに爆発のリスクがあるため、万が一に備え(被害を最小限にするため)大きい建物はあえて建てない」んだそう。いわれれば確かに! ですよね。
【2】旧理化学研究所 板橋分所跡

『旧野口研究所』とともに、閉鎖翌年となる1946年(昭和21年)に『陸軍板橋火薬製造所跡』に入居したのが『旧理化学研究所』。石神井川を挟んで『旧野口研究所』の向かい側に位置している平屋の建物です。
ここも戦前までは火薬工場として稼働していましたが、戦後は宇宙から毎日降り注いでいる高エネルギーの素粒子「宇宙線」の観測と基礎研究を、2016年(平成28年)に閉所するまで70年近く実施。
入居時の主任研究員は、日本原子物理学の父と呼ばれる仁科芳雄博士(1890-1951)。仁科博士のお弟子さんであり、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士(1907-1981)も一時在籍されており、施設を利用する当時の写真も残されています。
『旧野口研究所』側と同じく、戦前の記録がのこっていないため、『旧野口研究所跡』以上に詳細がわかっていないそう。明治期に建設した赤レンガ造りの建物が現存しているものの、内部は『理化学研究所』時代に増改築を行ったため大きく変わっているとのこと。

建物は外部からの力の入力を効果的にいなせる、三角形の鉄骨フレームで支えるトラス構造を採用。

なにもないように見える広場。よく見るとうっすらと、写真中央付近にコンクリートの基礎が。元々どんな目的の建物があったかは不明とのことですが、恐らく研究所職員用の宿舎の跡ではないかとのこと。
物理試験室

『旧理化学研究所跡』は大きく2つの建物で構成されており、1つが『物理試験室』。
構造が違う3棟が連結した構造となっており、1907年(明治40年)建造のレンガ造りの中央部は関東大震災に耐えた堅牢な造り。史跡指定エリア内では最古の建物です。1931年(昭和6年)と1938年(昭和13年)に、その前後にコンクリート造りの建物が増築。1つの棟となっています。
戦前は、火薬の密度や粒度といった、一般の人は難解な物理試験を中心とした火薬の研究を行っていたそうで、もっとも古い中央部の建物床には、火薬工場への物資を運搬していたと思われるトロッコのレール跡(←写真、撮影し忘れました!! 大汗)が残されていました。
火薬の表面を木炭(黒鉛)を塗り、 すべりを良くして装填性を上げる「光沢作業室」として利用されていたとのことです。

『物理試験室』の建物内は、通路は狭めなものの天井が高く、ガラスエリアが多いため開放的な印象。比較的最近まで利用されていたとは思えないほど、ドアや壁など、細部の劣化が進むなど、歴史を感じます。

『物理試験室』のもっとも奥側にある部屋は、湯川秀樹博士も利用されたという研究室。湯川博士は当時、京都大学へ往復したりと忙しくされており常勤ではなかったそう。「紙とペンがあれば研究はできる」という言葉ものこされています。

内部の劣化が目立つ、入り口すぐ脇にある10号研究室。

部屋の中にさらに部屋を設けた、北を向く上下2層構造のボックス内には、宇宙線の観測装置がのこされたままに。

主任研究室の部屋には、実際に使われていた机や棚などの什器が残されています。机の脇に書かれたは手書きの英数字は、終戦後GHQの命で記入されたもので、入居時に持ち込んだ什器の管理番号とのこと。「EX」で始まり、「39」は関東軍政部、「54」は『旧板橋火薬製造所』を示すそう。

広い間となる「9号室」には、黒板や時代を感じさせるブレーカーなどが見えます。『理化学研究所』時代は、ミーティングエリアとして活用され、ここで仲間の研究者と歓談される湯川博士の写真ものこされています。

大きな黒板や什器が残されているこちら「電子計算室」。写真をよく見ると床が一段高くなっていることが分かるはず。スーパーコンピューターのような電子計算機等を設置するうえで問題となる、無数の配線を隠すことや、起動時に発生する熱を逃がすための処置で、『理化学研究所』側で床を上げたもの。
爆薬理学試験室
先述の『物理試験室』と、別棟となっている『爆薬理学試験室』(1934年〜1937年頃建設)は、爆薬の研究に特化した施設と考えられているものの、市の担当者いわく、終戦後に入居した『理化学研究所』側でかなり手を加えているため、戦前どういった研究をおこなっていたかは分からないとのこと。
『理化学研究所』が入居後は、観測機器等を設置して降りそそぐ宇宙線を研究を実施。一部の研究室では、元々あったガラス窓や、外へ出ることができた掃き出し窓などもすべて壁で塞ぐなど、内部は大きく手が加えられているそう。
ちなみに今回公開されたエリアは一部でしたが、この「爆薬理化学研究所」に地下があり、そこには実験に使用する機材等一時的に置いていた保管庫ではなかったか!? とのこと。天井がかなり低い地下室が存在するんです。

『爆薬理学試験室』の奥にある研究室。注目はその天井。青い壁のラインから上の格子状となっているものが元の天井。入居した「理化学研究所」は当初、この高さで研究を行っていたそうですが、空調の効きなどを良くするため青いラインで天井を造り部屋の容積を狭くして利用していた時期があるそう。元の天井は陸軍時代のものとのこと。

こちらの写真は実際にその研究室を使っていたときの様子。天井が元の格子状であることが分かるはず。

一部研究室には、「理化学研究所」時代の什器等がそのまま残されていました。
紹介ムービーも参考に
レポートまとめ♪

・23区内唯一となる、板橋にある近代化遺産が特別公開!
・火薬&爆薬製造研究の貴重な遺構が複数現存
・令和11年度に、都内初の「史跡公園」として活用開始予定
いかがでしょう!? なかなか知る機会のない、貴重な近代化遺産。一般の方はなかなか立ち入ることはできませんが、令和11年度には「板橋区史跡公園(仮)」として、これまでよりは身近に鑑賞できる場となりそうですので、首を長くしてお待ちあれ。ちなみに来年の一般公開は現時点未定とのことです。気になる方は板橋区のホームページを小まめにチェックあれ。
今回ご紹介した記事は
いかがでしたか?
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